ともに、明日の習志野へ
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プロフィール

地域社会のために働きたい、恩返しをしたい――
私の想いと行動には、生い立ちや今までの社会人経験が大きく影響していると感じます。その経緯について自分で書くとつい堅くなってしまうので、知り合いにお願いしてインタビュー形式でまとめてもらいました。
第1回は生い立ち編です。

第1回: 生い立ち

——大宮さんは1980年生まれ。日本経済が絶頂に向かっていた頃です。

埼玉県所沢市で生まれた私は、小学校に上がるタイミングで東京都東村山市に引っ越しました。当時はいわゆるバブル経済期でしたね。でも、私が育った家庭はバブルとは無縁で、経済的にはなかなか厳しかった記憶があります。すきま風が入るので冬は家の中でも吐く息が白くなりましたし、服やランドセルはすべて2人の兄たちのお下がり。ピッカピカの1年生というランドセルのCMがありましたが、私のランドセルはお下がりでボロボロでした(笑)。もちろん自分の部屋などはありません。兄たちは2人で一部屋ありましたが、私は家族団らんの居間に布団を敷いて、他の家族が居間で話している脇で寝ていました。

子ども時代は丸坊主だった大宮3兄弟。私だけ今でも坊主頭です。

当時はファミコンが流行っていたのですが、「買ってほしい」とは親に言えません。『スーパーマリオ』の画面を白い紙に描いて、キャラクターを手で動かして遊んでいました。おかげで想像力が養われたかもしれません(笑)。それでも笑いのある温かい家庭でしたし、懸命に育ててくれた両親、そして一緒に育った兄たちには感謝しています。

——紙の上でスーパーマリオ、なかなか高度な遊び方ですね(笑)。

友だちなどに貧しさゆえに引け目を感じていたのは確かです。そのせいか、自分は一人で頑張らないといけない、と思い込んでいました。小学校の高学年では野球をやっていましたが、自分のプレイがチームに影響を与えてしまうのが心配で、中学校と高校の部活では陸上と水泳を選びました。自分の努力が自分の結果となる個人競技だからです。だから、陸上でも水泳でもリレーに出場することは気がひけていました。

一人でやれることには限界があると痛感したのは、社会人になってからです。3人の子どもの父親となった今では日常的に様々な人に支えていただいています。今日のインタビューも、ですね(笑)。人は支え合ってこそ大きな力を発揮できるとしみじみ思うのは、一人で生きていかなくちゃと意気込んでいた子ども時代の反動なのかもしれません。

——大宮さんのプロフィールには「高校から大学までは授業料免除や奨学金等を頂きながら勉学と社会勉強に邁進」とあります。

はい。授業料免除制度と奨学金には本当に救われました。経済的に恵まれているとは言い難い生育環境でも大学まで進学でき、自分がやりたい仕事に就けて自立できたこと。親だけでなく社会のおかげです。だから、少しずつでも日本社会に恩返しをしたいと思っています。

地域社会への感謝もあります。私が育った頃は、近所で子どもの成長を見守る環境がありました。よく覚えているのは、小学生の頃に実家の周りにフンをしまくる野良猫を退治しようとしたときのことです。見知らぬおじさんに「動物をいじめるのは駄目だ。猫が悪いんじゃなくて、野良猫にした人間が悪いんだぞ」と叱ってもらいました。地域の大人が子どもにしっかり説教する光景は今では少なくなりましたね。でも、大事なことだと思います。

——アルバイトなどはしましたか。

もちろんです。初めてのアルバイトは、高校1年生のときのお正月の年賀状配達でした。働くまでは、郵便が配達されるのは当然だと思っていたのですが、いざ自分が働いてみるとその大変さを知りました。もし落としたりすれば、年賀状を楽しみにしている人のもとに届かなくなってしまいます。配達担当だけでなく、郵便物を仕分ける人など全員がそれぞれの役割をきちんと果たすことが重要なのだと感じました。

ヤマザキパン武蔵野工場でのアルバイトも貴重な経験でした。私の担当は「まるごとバナナ」というお菓子用のバナナを大釜で茹でて生地にのせていく仕事。精神的にも肉体的にもなかなかハードでした……。

当たり前のように売っている食品をいざ作るとなると、調理だけでなく衛生管理や梱包、配達にすごい人数と労力がかかっているのです。それだけに、コンビニの売り場で「まるごとバナナ」を見ると、もしかして自分が関わった商品かもと嬉しく思いました。

どんな仕事でも自分の役割をしっかりとやり遂げる人がエライ。アルバイト経験はこういう職業観を養うきっかけになりました。

——最後に、大学生時代について教えてください。

さきほどお話した「引け目」もあって、とにかく一生懸命に勉強して大学に入りました。自分なりの仕事に就き、生活を立てていきたいという気持ちが強かったからです。でも、大学に入ったら何か虚しさのようなものを感じてしまいました。ちょっとした燃え尽き症候群だったのかもしれません。

インドの寺院にて。同世代の若者たちと日本とインドの違いについておしゃべりしました。

そんな私の心を埋めてくれたのは海外への貧乏旅行です。いわゆるバックパッカーとしていろんな国に行きました。特に好きだったのはアジアの開発途上国で、苦しい環境だとしても楽しく元気に人生を過ごすことの大切さを教えてもらったと思っています。

日本にいる留学生とも仲良くしていました。日本が好きで学びに来ている彼らから、日本の良さを気づかせてもらいました。美味しい食事、豊かな自然、歴史と現代が折り重なっている魅力的な文化……。

私の大学生時代、日本はすでに閉塞感に包まれていました。「失われた10年」などと言われていましたね。だからこそ、途上国の人たちが持っているすごい熱量、元気なエネルギーを日本に取り込みたい、と思いました。大学卒業後の就職先として国際協力機構(JICA)を選んだ理由でもあります。

この気持ちは今でも変わりません。そして、生まれた環境に左右されずに自分なりの進路を選んでいけるような社会をみんなで築き、日本だけでなく世界の人たちと共有したい、と思っています。

第2回に続く)