プロフィール
地域社会のために働きたい、恩返しをしたい――。
私の想いと行動には、生い立ちや今までの社会人経験が大きく影響していると感じます。その経緯について自分で書くとつい堅くなってしまうので、知り合いにお願いしてインタビュー形式でまとめてもらいました。
第2回は社会人編です。
第2回: 社会人になって
——第1回(記事はこちら)では、学生時代にバックパッカーとして途上国を回った経験を伺いました。途上国の人々のたくましいエネルギーにもっと触れたい、閉塞感の漂う日本社会にも役立てたい、という想いがあったそうですね。民間企業ではなく、国際協力機構(以下「JICA」)を就職先として選んだのはなぜですか?
やはり大学1年生の夏のインド一人旅が大きなきっかけだったと思います。現地ではものすごい貧困を目の当たりにして衝撃を受けて、帰国後に自分なりに調べてみたのです。そして、世界の国々が経済的な支援をインドに対して行っていることがわかりました。しかし、その国を担う人が社会を良くする気持ちを持って能力を発揮しなければ、援助は砂に水を撒くような行為になってしまいかねません。JICAは経済的な支援だけでなく、途上国の未来を担うような人材育成を重視しています。私はそこに惹かれて入構を決めました。
——20年間の勤務の中で思い出に残る仕事をいくつか教えてください。
途上国の教育を支援する部署での仕事です。エジプトからの要請で、「日本式の工学系大学を作りたい」というものがありました。大教室での講義を受けるだけではなく、教授の研究室における少人数教育が日本式工学教育の特徴の一つです。日本式の教育を高く評価したエジプト側の要請でした。
ゼロベースで大学を作るというのは並大抵のことではありません。途方もない夢とも言えます。当初は、日本政府もJICAも戸惑って懐疑的でしたが、エジプト側の熱意は変わらず、少しずつ前進していったのです。最初の担当者だった私も2回ほどエジプトに出張しました。また、エジプトの関係者を招待し、日本の大学を案内したこともいい思い出です。
カリキュラムやシラバスも一緒に作り、キャンパスや研究機材に関しても日本が全面的に支援しました。日本国内の各大学の先生方の協力は今でも続いています。そして、2010年2月に大学が本当にでき上がりました。エジプト日本科学技術大学(E-JUST)です。順調に発展し、今では近隣諸国から留学生を受け入れるまでになっています。
この経験で私が感じたのは、国を担う若者を育てたいという熱意を持ち続けることの大切さです。私自身もそれに動かされるようにして一緒に取り組み、彼らの夢の実現に参加させていただくことができました。
——内戦終了後の東ティモールでは大学の創立ではなく再建に携わったそうですね。
はい。東ティモール大学の工学部です。一番の課題は、教える側の態勢が整っていないこと。当時、30代から50代の教員が70人ほどいたのですが、正直に言って高校レベルの数学すら怪しい方もいました。その能力を見極めるためには学力テストを実施しなければなりません。
しかし、テストを行うと告知したら先生たちが怒ってしまいました。自分がやってきたことを否定され、プライドを傷つけられた気持ちになったのでしょう。私たちもここで引くわけにはいきません。テストの点数が悪くてもクビになることはない、能力別の研修を用意している、学生をきちんと教育することが東ティモールの未来になる、などと論理と情熱を持って説明しました。
テスト当日。半数が参加してくれれば良いほうだろうと思っていたのです。結果として、ほぼ全員の先生が参加してくれたのです。感動的な光景で今でも思い出すと胸が熱くなります。
大人になって経験を積んでから、自分の能力を客観的に測られることは屈辱的かもしれません。恥をかいてしまうこともあるでしょう。でも、それを忍んで勇気を持って変わることを選ぶ尊さを教えてもらった気がします。
テストの結果、能力が足りない先生には現地で研修を実施。能力が高いことが判明した若手の先生には日本の大学院に来てもらい、さらに高い水準を目指す機会を設け、その結果、東ティモールで初となる日本の大学での博士号取得者が生まれました。
——2007年からの2年間は、内戦が収まっていなかったアフガニスタンに赴任しましたね。大変な毎日だったでしょう。
安定した日常が明日もあることを思い描けない国があることを実感した日々でした。テロによって身近な人がどんどん亡くなっているような状況では、自分のキャリアや未来なども安心して考えられません。私自身、テロに肉薄してしまうこともあり、「命あっての人生だ。生きている間は楽しく前向きに過ごしたい」と強く感じたのを覚えています。
一方で、アフガニスタン人の行政官たちの粘り強さには感銘を受けました。大事な会議がテロで延期になってしまうことなどは日常茶飯事。それでもあきらめたり自暴自棄になったりせず、「やれるときにやれることをやるしかない」という姿勢を貫いています。30年以上も紛争状態が続いている国に住み続ける人の現実と強さを感じました。
——帰国後、外務省への出向も経験していますね。日本の官僚に同僚として接した感想はいかがでしょうか。
ほとんどの人が非常に真面目に働いていて、国民のために尽くしていると感じました。おそらくそれが官僚の実像ではないでしょうか。
もちろん、官僚機構には無駄な部分が少なくありませんし、「働きすぎ」という課題もあります。批判の目はあってしかるべきですが、根本的な問題は公務員一人ひとりの個人的な素質ではありません。構造的なものです。そして、行政の構造を変えるのは有権者の代表である政治家がやるべき仕事です。実際、政治家が動けば行政は意外とすんなり変わるものだと感じています。
——JICAにおける長期の海外赴任はアフガニスタンでの2年間とインドネシアでの4年間(2017年から2021年)でしたね。日本とのつながりも深いインドネシアではどんなことを感じましたか。
残念ながら、躍進するアジアでは日本はだいぶ遅れをとってしまっている、という現実です。かつての東南アジア諸国は日本の技術やモノ作りに強い憧れを持っていました。現在ではそれがほとんど感じられません。話題に上るとしたら、漫画やラーメンぐらいでしょうか……。
今は日本人が学ぶことのほうが多いと思います。若年人口が多いインドネシアの人たちは時代の変化に敏感です。時流を先取りするべく小さなビジネスにどんどん挑戦しています。成功すれば、バイクタクシーの配車サービスからスタートした「Gojek」(ゴジェック)のように大化けするかもしれません。失敗してもそのプロセスを楽しむ感覚があります。
象徴的なのは「チョバ」というインドネシア語です。「ちょっとやってみる」ぐらいの意味で、ビジネスでも政策でも地域社会活動でも「チョバ」を聞く機会が多く、とてもいい雰囲気だと思いました。
今の日本では、若い人の間にも安定や正解だけを求める空気が漂っています。でも、実際には安定などはあり得ません。大企業の倒産や吸収合併による消滅はもはや当たり前の世の中になっています。
ならば、私たちは変化と挑戦を積極的に楽しむべきではないでしょうか。そのためには失敗しても再チャレンジできる社会的基盤が不可欠です。年金、医療、教育などの基本的サービスはどんな境遇でも無償または安価で受けられるという安心感があれば、日本人も「チョバしようぜ」という気持ちになれるでしょう。
——最後に、JICAで国際経験を積んできた大宮さんが、習志野市という地方自治体の市政に関わりたいと思った理由を教えてください。
海外で仕事や勉強をしているうちに、日本の問題がますます深刻化しているのを感じていました。子どもの貧困、高齢化、財政赤字……。いずれも待ったなしの問題です。途上国のパワーを日本につなげたいと思ってJICAで働いて来た私としては、今こそ直接的に日本社会に貢献するべきだと判断しました。自分の住む社会のために動くべき時がきたと感じています。
私がこだわりたいのは「現場感覚」です。自分が住み暮らして子育てもしている習志野は素晴らしいところで、潜在性も高いと感じています。一方で、課題も山積していると住民の一人として指摘せざるを得ません。現場感覚を持って市民の声を集め、市民と行政との間の橋渡しをし、豊かな未来に向けたワクワクできる街づくりをしたいと思っています。
JICAでは途上国の行政支援に長く携わってきました。行政における組織改革や人材育成は私のキャリアの主軸です。その知見と経験を、習志野市をより良くすることに使わせていただきたいと強く思っています。
(第3回に続く)