私は、日本の教育行政は抜本的に改善すべき、と考えています。
1990年前後に、冷戦終結、バブル経済崩壊と経済の長期低迷の開始、といった国内外の社会情勢が構造的に変化し、そして、2020年代に入ってAI等の技術革新も劇的に進む中で、日本の教育行政は未だに昭和モデルのまま、と捉えています。
そもそも、教育とは何のためにあるのでしょうか?教育の役割は何でしょうか?
まず、子どもの権利のために教育はあります。どんな環境に生まれても、自由に自分らしく生きていく権利として教育を捉えています。次に、社会の基盤として、「共に生きて、支えあう仲間」としての意識を醸成する役割が教育にあります。最後に、日本という国・社会の強みとして、協調性や平和重視、連帯感を有する「人財」を生み出して世界平和に貢献する意義があります。
このような教育の意義や役割を踏まえて、日本の教育行政を見直すと、「3つの軽視」があります。
まず、「公教育の軽視」です。日本は、公的予算の教育機関への支出は先進国の中で低く、そして、憲法第26条で定めている「義務教育の無償」原則も未達、という恥ずかしい状況です。結果として、中学受験が過熱し、公教育への信頼が低下してしまい、格差の固定化、「機会の平等」の損失につながっています。
次に、「子どもの権利の軽視」です。私自身も小・中学校で体感してきましたが、日本の教育は、子どもの権利を大事にする、子どもの能力発揮を促す、というよりも、「管理するための教育」という側面が強いと捉えています。ブラック校則や虚礼的な儀式、画一的な行動・一斉授業という面に表れているように、個性を大事にするよりも、管理しやすい人間につながるような教育です。その結果、職業を選ぶ段階になっても、同じようなリクルートスーツを着て一斉に活動する、というような異様な光景が未だに続いています。
最後に、「多様性の軽視」です。中学から高校・大学にストレートで進学という単線的な教育課程への偏重に加え、クリティカル・シンキングの不足、そして、在住外国人児童への支援不足といった課題があります。その結果、多様な価値観や考え方を大事にすることが社会全体としてできていません。
このような課題は、一義的には、国全体で取り組むべきものです。しかし、国任せ、県任せという考えではなく、基礎自治体から取り組んで改善できることは多くあります。
習志野で前向きな改善を多く実現し、日本の教育行政を変えていく、この志で取り組んでいきます。
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